◆社会貢献をする方々への応援もなさっていらっしゃるのですか?
小林るつ子さんという方がいらっしゃいます。この方はボランティアで、おもちゃ図書館で活動をされていました。私も会社の隣の障害者施設「ほっとすてーしょん」を通じてそのお手伝いを続けています。
おもちゃ図書館とは、世界的な組織で、障害児が玩具による遊びを通して、社会の一員として育っていってほしいという目的で作られました。
そこで偶然にも活動されていた大学の先輩で、練身部の先輩でもある長谷川弁護士(故人)と出会い、当社の顧問弁護士になっていただきました。その方は、大学の現役のときに弁護士資格を取った大変優秀な人でした。障害児のお子さんを持ったことで、障害者にとってのユートピアを作りたいといって奔走した人です。しかし肝臓ガンで他界しました。その先輩が後をゆだねた女性弁護士さんは、その時当社が抱えていた理不尽な裁判を闘ってくれましたが、裁判が終わった後にその方もガンで無くなりました。その方のお子さんも障害を持っていたのです。まだ30歳半ばでした。人生こんなものかと思いましたよ。なんでこんなに優秀で、心のある人たちがこんなことになるのか・・・と。そういう方々とのつらい別れを経験して、私もずいぶん人に優しくなれたような気がします。つらい経験の無い人間ほど平気で人にひどいことをするものです。悲しいことです。
◆事業継承についてお伺いします。
創業者としての父親は、一応会社を立て直した私という後継者をつくりました。父親より会社を大きくさせたのですから。私が父親を超えることができるとすれば、それは私が自分を超える後継者を育てることだと思っています。
創業者というのは、例えば始めは一人か二人乗りの小船を波のない入江に漕ぎ出すようなものです。そして事業が大きくなるにつれ、船を乗り換えてだんだんと大きな船になり、操舵長や漁労長ができ、船員も増えていくわけです。経営者は、その船の船長です。船長は自己判断で航海を続けていかなければなりません。二代目としてその船に乗り込んだとしても、船内にはだれも経営について教えてくれるものはいないのですよ。そういうときに必要なものは、灯台の明かりなのです。その明かりを頼りに私は会社の舵取りをしてきました。この灯台に当たるのが、同業者の集まりや、異業種の経営者の勉強会なのです。そういう場に出て、先輩の方々の体験や意見を聞きながら、自社の経営を立て直していきました。
経営者は、複眼的思考をもたなければいけません。右目で足元をしっかりと見つめ、左目で何年か先の青写真をきっちりと持つことが大切です。
◆中小企業の経営者といったら・・・
人の一生は重荷を負ひて遠き道を行くが如し
急ぐべからず
不自由を常と思えば不足なし
心に望み起こらば困窮したるときを思い出すべし
・・・・・(徳川家康公遺訓)
若い頃は、これでしたね。中小企業の経営者は、がんじがらめの人生ですよ。でもそれが常だと覚悟して生きようとね。(笑)でも最近は時に宮沢賢治の「雨ニモマケズ・・」の「ヒドリ(日照り)ノトキハナミダヲナガシ、サムサノナツハオロロアルキ」のあきらめの心境にもなりますね。
どうして大企業に史上空前の利益がでているのだろうかと、考えたときに、たぶんに中小企業泣かせのところが多分にあるのじゃないでしょうかね。それを中小企業としてどう考えたらいいのでしょうか。泣き寝入りはしたくはありませんね。大企業に泣かされないような価値ある企業になることです。製品やサービスに差別化ができなければ、生き残っていくことは難しい時代になっているのです。差別化の一つとしては、便利屋に徹しています。事業内容についてのところでお話しましたようなことです。また、さらに新しい事業展開も考えています。それも三歩前進二歩後退という状態ですがね。(笑)
日々思っていることなどを、ブログ「ワンマン親父の独り言by DNA村上」に書き綴っています。
◆村上さんの夢は?
合併のとき当社の歴史を調べてみたのですが、父は経営者として若い頃はいい経営をしていました。しかし60歳をすぎたころからその経営手腕が鈍ってきました。これは感覚が時代についていけなくなったからだと思います。同じDNAです。ですから私も59歳で社長を譲ることにしました。後継者も育っています。会長職になったら、苦労をかけた妻への恩返しもしたいので、半年はマレーシアのクアラルンプールで過ごす予定です。とても暮らしやすいところですよ。そのために英会話の勉強もしています。日本と東南アジアを行ったりきたりして過ごしたいと思っています。若い頃から海外に過ごしたいと思っていましたので、その夢を実現しようと思っています。おととしの3月に亡くなった弟の骨を分骨してアンコールワットに埋葬してあるのです。妻と一緒に、弟の眠る地で昇る朝日を見たいと思っています。私も3年前に、食道静脈瘤破裂で生死をさまよいました。お蔭様で生還して今があるわけです。
これは多分、父親がまだこっちに来るには早すぎる、この世でもっと働いてから来いといって追い返されたのでしょうね。(笑)60歳からは重い荷を置いて、長年の夢を実現していきたいですね。
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