◆モンゴルへせっけん製造の指導をされるようになったきっかけは?
1991年の3月頃だったと思います。大阪の女性から電話がきました。その女性は「日本モンゴル経済交流協会」の代表で大阪に本部があり「生活クラブ生協」の理事長をされている方で、「モンゴルへ行ってせっけん製造の技術を教えてほしい」ということでした。モンゴルは「1990年に一党独裁を放棄して民主国家として歩みだした東北アジアの国」くらいのことしか知識としては有りませんでしたのでもうびっくりでした。(笑)
彼女の「モンゴルの酪農を中心とした自然いっぱいの環境を守りたい」と熱く語る姿に感動をおぼえました。
1991年8月15日、奇しくも海部元総理が日本の首相として初めてモンゴル訪問を終えて日本に帰国した日に、私たちはモンゴルの首都ウランバートルに入りました。モンゴル滞在中にソ連の崩壊にぶつかり帰国も危ぶまれましたが思い出の一つです。
その後、紆余曲折はありましたが、「リサイクルせっけん協会(1991.2設立)」の協力もあり、「国際ボランティア貯金」からの助成が受けられ、1993年秋に具体的な設置のための調査、1994年春にはプラントの設置と試験稼動等を行いました。
◆現在はどのような活動をされているのですか?
1992年から全国組織の「リサイクルせっけん協会」に所属し、全国での普及活動や海外での支援活動に参加し、現在北海道地域事務局局長・全国幹事会の一員として活動しております。
北海道地域事務局では、北海道内の「せっけん製造プラント」を購入してせっけん作りをされている地域や施設の方々への支援活動、毎年地方町村に出かけていき定時総会と環境セミナーを開催し、「せっけん」の普及とリサイクル循環型社会を目指して啓蒙活動しております。
海外交流活動では「アジア市民生活環境会議(発足当初の名称は「アジアせっけん会議」)」を主催し、「リサイクルせっけん協会」の呼びかけにより、協力関係にあるアジアの石けん工場(韓国、モンゴル、タイ、マレーシア、フィリピンなど)や環境問題に取り組む市民団体とそれぞれの活動を報告し、交流する場として1994年にスタートしました。
以後、各地で会議と交流を重ねる中から、せっけんづくりばかりでなく、生活環境全般に視点をもったアジア市民生活環境会議として会合を持ち、民宿などを通じた草の根交流や暮らしに根ざしたさまざまな環境問題を報告しあう中から、アジア各地でもリサイクル循環型社会をめざす市民交流の場として活動を続けています。
今年はインドネシア・スラバヤで開催され私も参加してまいりました。
◆(有)サムを設立なさった経緯は?
ちょっと話はながくなりますが、1987年(昭和62年)の春に3年計画で現社長のいとこと、旭川ミート(株)の機構改革を断行することにしました。
畜産業界では仲買からの仕入れは10日決済で販売は60日決済が普通です。毎月運転資金のやり繰りに追われ苦しい日々が続いていました。販売金額の60%を占めていた赤字部門のスーパー・小売店への卸売りをやめ、残り40%の廃鶏専門でいくことに決めたのです。廃鶏というのはブロイラーが世に出るまでは「かしわ肉」とよばれた鶏肉のことで、現在では食品加工の原料として、静岡県の食品メーカーにほぼ100%納入しております。
1989年(平成元年)10月に隣町の深川市納内町に時代に合った衛生的で機能的な「旭川ミート・深川工場」を建設して、一日の処理量を旭川本社工場と合わせて一万羽にまでにしました。
1990年(平成2年)5月にいとこに代表取締役に就任してもらい主に深川工場を、私は専務取締役として旭川本社工場と市内への営業部門を担当し新社長をサポートする体制としました。
営業部門もせっけんの販売と鶏のガラ・トリモツ・かしわ肉・ササミだけとし中卸売りをやめて大卸売りに切り替えました。その結果、私の仕事が暇になり、もっとなにか仕事をしたいという思いで、たまたま契約で来社した子供の頃から兄弟同様に親しくしていた保険代理店のM君に相談したところ、「保険会社も企業代理店育成に力をいれ始めているのでやってみませんか」とすすめてくれました。
1991年(平成3年)3月に正式に代理店登録して4月から営業活動を開始しました。
1992年(平成4年)4月、製造部門と営業部門の分離分社することになり、製造部門は「旭川ミート(株)」で現社長が代表に、営業部門は製品の販売、「せっけん」の製造販売、保険部の3本柱とした新会社「有限会社サム(Sales Asahikawa-Meat)」が担当し、私が代表取締役(旭川ミート(株)の専務取締役兼務)に就任しました。
1996年(平成8年)3月には「旭川ミート(株)」を退社し「サム」の真の経営者として専念することにしました。
◆モンゴルへの桜植樹のボランティアとは?
1995年にはFM北海道の中田美知子アナがモンゴルの小さな新聞社「さくら」の女性編集長との交流からスタートしたキャンペーンの呼びかけに賛同して、札幌の仲間たちや道立林業試験場の職員の方たちの協力を得て、植林事業「モンゴルに桜を植えよう」キャンペーンを実施、多くの道民から募金をいただき桜の苗木(3000株)や種等を持参し、ウランバートル市とFM北海道の全面協力のもと参加者40数名と訪蒙しました。
また、翌年には募金の中からモンゴルで多発している森林火災に使ってもらおうと、背中に背負って使用する消火器を二十台購入してモンゴル政府に寄贈し消火活動に役立てていただきました。
1998年には植林事業に参加した人達が中心となり「国立モンゴル馬頭琴交響楽団」北海道公演を主催し、旭川・音更(帯広)・札幌で開催することが出来ました。私が責任者として担当した旭川公演では上川支庁と旭川市教育委員会、経営者の仲間や市民の協力で「旭川市民文化会館(定員1580席)」が満席とになり、馬頭琴演奏のすばらしさと「ホーミー」や「オルティン・ドー(長い唄)」の歌声に来場された市民から絶賛の声が寄せられました。