◆探究心が旺盛なのですね。アナウンサーのお仕事は楽しかったですか?
失敗ばかりで・・・向いていなかったのだと思います。(笑)
初めは、想定外のアナウンサー職でしたので、ちょっとふてくされていました。上司から見たら、扱いづらい子だったと思います。そんな時に上司から「智恵は、一所懸命人を楽しませようとしたり、人の役に立とうと努力していることは見ていてとても気持ちがいいことだよ。その気持ちで仕事をできないのか」と言われて、はっとしました。私は「自分で選んで始めた仕事なのに、ふてくされていてどうする。きちんとやろう」と決心しました。そう思ったらとことんはまってしまいました。(笑)
でも私って、本当によく失敗するのですよ。例えば、リポートしながら穴に落ちたり、原稿を時間内に読み切れなかったり、失敗ばかりでした。それなのに、視聴者の方々はダメな私を温かく応援してくれました。入社半年で、5時間の生番組を持たせていただきましたが、そこでも失敗の連続でした。(苦笑)お叱りももちろんありましたが、励ましのお便りや電話をたくさんいただき、人に共感してもらったり、励ましてもらうことで勇気をいただいたり、「ありがたい」と思わされる日々でした。
この番組を降りることになった時には、私を理解し、支えてくださる方たちとの関係を断たれてしまうようで、とても落ち込みました。その後キャスターに移行して、報道部とアナウンス部の掛け持ちをしていました。
◆アナウンサーとキャスターの違いは?
基本的には、アナウンサーは、なるべく私感を交えず事実を伝えることが主な仕事です。キャスターは、アナウンスメントはもちろんですが、さらに取材を通して自分が見聞きしたことに感想などを交えてお伝えできる存在といえば分かりやすいでしょうか?
◆取材で印象に残っていることは?
真夜中にけたたましい音を立てて車を乗り回す子どもたちは何を考えているのかを取材していたことがあります。10代後半の彼らは私をすんなりと受け入れてくれました。
T君という少年院から出てきたばかりの少年の話は今でも忘れられません。T君は「僕は幼い頃、腎臓が悪くてみんなと同じものが食べられなくていじめられ、強くなればバカにされずにすむと思って、その方法を間違えた。暴力団の事務所に出入りをするようになったら、みんながいじめなくなった。でもある時、暴力事件のとばっちりで逮捕されて少年院に送られた。大人たちは僕が少年院を出てきたことで差別する。街に行くのは、僕の気持ちをわかってくれる仲間がいるから。僕は水道の配管工かトラックの運転手になりたい。なぜなら誰とも話をしないですむから・・・」って言うのです。その言葉がとても心に引っかかって、他の少年たちにも、「どんな仕事をしたいの?」と聞いてみました。「トラックの運転手」「板金屋さん」「何で?」「しゃべらなくていいから・・・」親をはじめ家族ときちんと話し合いができていないのだと痛感しました。家族との関係の大切さ、語りかけの大切さに気づかさ
れました。私に何ができるだろうかと考えた時、親の経験はないので親にはなれないが、娘であり、姉妹であることはできる、だから自分で出来る限りの役を演じてみようと思いました。
◆役を演じるとは?
当時、ニュース番組の中の天気のコーナーでたった10秒ですが自分の思いを伝えられる時間がありました。
私はここで家族を演じてみたのです。例えば、5月になると新入社員の皆さんが仕事にちょっと疲れて下を向いて歩いているこ
とってあるじゃないですか。だから「今日も下を向いて歩いていませんか?足元に咲くタンポポはきっと励ますために咲いているんですよ。次は空を見てみましょう」というように、その時々の息づかいの感じられるメッセージを作ることに毎日毎日心がけるようになりました。視聴者のみなさんの身近な存在でありたかったのです。
◆東京に移られたのはいつからですか?
2001年の結婚を機に退社し、東京に移りました。日本テレビのプロダクションに所属して、テレビやラジオの仕事をさせていただく傍ら、母校の大正大学で山梨放送で培った独自のメソッドを用いた会話表現の講座を持たせていただきました。
また、局アナ時代に学んだパーソナルカラーの仕事も始めることになりました。実は、地方局では衣装は自前、メイクも自分でするのが当たり前。自己演出の必要性がフリーになってから仕事になるとは思いませんでした。
色彩を学んでいくうちに、「色」にはさまざまな意味があるということを知り、4年ほど前にカラーセラピストの資格を取りました。心理学者は憧れの仕事だったので、わずかですが夢に近づいた感じです(笑)
一見するといろんな仕事をしているようですが、これまでの行動のすべてが、何かでつながっているのではと感じています。