◆そこでどうされたのですか?
これではいけないと思い、4番目の子供の妊娠をきっかけに、専業主婦に戻ることにしました。でも、やはり黙って見ていられなくて・・・でも、夫はそれをいやがりました。そんな時に、目に入ったのが、「立教大学法学部社会人入試制度を新設」という新聞記事でした。第一次選考は本人の志願書と推薦書3通による書類審査で、第二次選考は、英語と論文でした。推薦書は、夫と子供、そして友人にお願いしました。英語と論文は、自分ではまったく自信がありませんでしたが、面接まで進めました。意欲が買われたのでしょうか。(笑)そして、1979年月、長男は高校に進学し、長女は中学生に、次女は4年生に、次男は2歳、私は36歳で大学生になりました。
◆大学生活はいかがでしたか?
とにかく新鮮でした。初めは、法学部だったので仕事にも役立つだろうくらいにしか考えていませんでしたが、政治・経済・社会学の授業も受講できることを知り、簿記をとり、会計学もとりました。第二外国語には中国語を選びました。二年生の時に、「現代中国研究」というゼミにも入れてもらいました。そこでひとりの男子学生から借りた一冊の本がきっかけで、中国革命の背景にある女たちの生き方に強い興味を持ちました。その本は、巴金(ばきん)の「家」という小説で、
五四運動を背景に資産階級の娘である女学生が家制度に反発して「自分自身」に目覚めていく・・・というものでした。法律の勉強をするために入った大学で、私の興味はどんどんと広がり、そんなエネルギーが自分の中にあったことに戸惑いさえ感じました。「こんなエネルギーを夫や子どもたちに向けたのでは、相手は迷惑だ。私は自分の世界を見つけなくては・・・」と、思いました。(笑)
大学2年の暮れ、夫から、「支店を手放し、家も処分して身軽になりたい。君は好きなことをやっていい」と言われました。好きなこと・・・と言われても、大学をやめて働くしかない。でも今の私に一体何ができるのだろうと思いながら、暮れの仕事に追われていました。年明け早々に期末試験があり、受けずに退学するのは敵前逃亡のようで、履修科目の試験を受けてやめるのがけじめだと、おせち料理を作りながら、勉強を続けました。最初の試験の日、同じ社会人入学仲間の女性に、私の状況の変化を聞いてもらいました。その時、彼女が言葉を選びながらいった言葉が私の心に響きました。
「わたしは川本さんより若くて経験も少ないから、分かっていないことはいっぱいあるけれど、女たちが自分の努力が足りなかったことを、もうちょっと頑張ればよかったことを、周囲のせいにしていることってあるんじゃないかなぁ・・・」
初めての職場も、再就職した地方公務員の仕事も、そして大学もまた2年で夫の仕事を理由にしてやめようとしている自分に気づきました。ここでやめたらもう前には進めないような気がして、なんとしても大学は続けようと決心しました。
◆不動産業を仕事にされることになったきっかけは?
我が家を手放すことになり、査定をしてもらうと、思いのほか高い数字が出ました。債務を返済しても、市内で中古マンションを購入できました。その契約を機会に宅建の資格を取って
「宅地建物取引主任者」になろうと決めました。8月1日から宅建取得の受験勉強を始め、10月合格、すぐに就職活動を始めました。
1982年2月から、大学生の不動産屋です。(笑)D社という会社を経て、住友不動産販売(株)にハウジング・アドバイザー・として入社、大規模開発の1戸建て分譲の第1期販売を担当しました。結果即日完売、「売る!」という不動産営業の面白さを感じながら、仕事と大学の勉強を続けていました。大学を卒業すると、仕事にも疲れを感じるようになって来ました。転職を考え、人材会社に行きましたが、そこで見たトレーニングルームでの中年女性が真っ赤な顔をしてPCと格闘している風景に自分の姿が重なりました。やっぱり不動産業を続けよう。この仕事なら主婦としての経験を生かすことができる。不動産業で生きていこう。そう決めました。そんな時に、三井不動産販売(株)が柏駅近くに販売センターを開設する記事を業界紙で見つけました。新しい職場は、家からドアツードアで25分でした。これなら子どもたちと夕食を一緒に食べることができます。(笑顔)
◆主婦による住宅販売チームを提案されたそうですね。
新しい職場には、既に2名のキャリアを持った主婦がいました。私が頑張るのは頑張らなければならない理由がありましたが、他のふたりの主婦は経済的な理由とは関係なく、働くことにとても意欲的だったのです。それは私にとって驚きでした。この3名に主婦チームは着実に実績を上げていきました。仕事を進める中で、いろいろな提案をしていきました。その会社は競合会社から転職して間もない主婦の提案を次々と吸い上げ、実現していったのです。1985年、男女雇用均等法が施行された年に、子会社サンライフクリエイション(株)が女性による住宅販売会社として説立されました。新会社が設立され、私も正社員になれたのはうれしいことでしたが、実際の状況は何も変わりませんでした。定年は50歳だったのですよ。実質的には男女差別でした。時代はバブルへと向かい、不動産ブームに乗って、新会社は1000人を超える主婦集団へと成長し、新卒の採用をすることになり定年も55歳まで延長されました。替わりにパートから正社員に採用される道がなくなりました。そこで、55歳の定年まで3年を残す時となって、私自身のテーマでもあった「女性による不動産会社」を創ろう!と、思い切って起業することにしました。バブルが崩壊し、まだ先が見えない1995年秋のことです。