◆高校卒業後はどうされましたか?
高校卒業後、ジャーナリストになりたくて、東京で就職をして、大学進学のために2年間お金を貯めました。第一志望は都立大で、専修大学は滑り止めでした。昔は先に合格した大学にすぐに入学金を払わなくてはいけなくて、それを払ったら、お金がなくなりました。(笑)アルバイトをしながら大学に通いましたが、ある時期から、会社を変わりました。それでも、124単位くらいで卒業できるところを180単位も取りました。なりたくないといっていた教員免許も取りましたよ。できないということは言いたくないといつも思っていましたから。(笑)
◆詩を書かれたのはいつ頃ですか?
東京に出てきて、本屋さんで詩の本を見ていたら、「壷」という同人誌で募集しているとあったので、尋ねていきました。それまで詩など書いたことが無かったけれど、高校ではちょっとしたものだからという自負もあったのですが、そこで「これは詩じゃない」と、こてんぱんにやられました。(笑)でも止めませんでしたよ。それはとても勉強になったし、主催しているご夫婦がとても面倒を見てくれたもので、入りびたりになって、ついには隣に引越してしまいました。僕はやる時は徹底してやるんですよ。(笑)19歳〜25歳まで詩を書いていました。大学に入ってからは、文学研究会に入り副代表になり、「専修文学」の編集長もやりました。3年の時に、先輩から誘われて「螺旋」という同人誌に入りました。この同人誌からは、芥川賞作家の宇能鴻一郎がでました。
◆その後、どういう会社に入られたのですか?
吉沢精機工業(現日本パルスモーター)という中堅の会社に入りました。僕はそういう会社のほうが自分の力を発揮できると思いました。営業として入りましたが、当初の受注ノルマが200万円/月で、その粗利が20%で40万円を確保するという目標は殆ど達成していました。2年半ほど経って、20人ほどいる営業の中でトップになったこともありました。そのときの受注が、1000万円、それでも給料は2万円ちょっとで、結婚したばかりの妻より少なかったのです。そんな状態の中で、先輩から、こんな会社ばかばかしいから自分たちで独立して仕事をやろうと勧められて、3年でその会社を飛び出しました。それからいろいろとあって、昭和43年に二人で日本スタビライザー(株)という計測器・電源装置の製造会社をつくり、先輩が社長、私が専務でスタートしました。
◆起業してみていかがでしたか?
始めたはいいが、全く受注が取れませんでした。あんなに優秀社員として表彰された先輩とトップ営業マンの私という二人なのに、なんで取れないのかと思ったのですが、要するに信用が無かったわけです。そこではじめて、会社の看板で仕事をしていたのだと気づきました。当時高田馬場に37000円で事務所を借りて、電話番で雇った女性の給料を払えない状態で、私たち二人は6ヶ月間、給料なしで働きました。はじめて日野自動車の子会社から80万円の仕事を取ってきて、その仕事を徹夜でやりました。そのころからやっと仕事が回りだしました。1年目の年商が300万円、2年目は2000万円、これでまともに給料をもらえるようになりました。3年目で、5〜6000万円、8年目で、8億6000万円になり、社員が100人になり、名古屋・大阪・宇都宮に営業所を構えるようにもなりました。
◆素晴らしい発展ですね。
私は、営業部長で工場長も兼務していましたから、寝る暇もありませんでした。土日もありませんでした。でも好きなことをやっているので疲れを感じることはなかったですね。当時は日本全国景気の良い時代でした。
ところが、お金が余ってくるとダメですね。社長が女遊びはするし、リゾートマンションを一棟丸ごと買ってしまうし、沖縄に土地を買うしと、不動産に手を出し始めました。僕は、従来からの電気機械の仕事をやり続けたいのです。そうすると、社長は会社の株を人に売り、不動産に走ってしまいました。新しい社長が入ってきたのですが、その人は電機の仕事は素人でした。そんな社長だったのでかえって仕事の邪魔になるので、「毎月200万円の社長手当を出すから、会社に出てこないでくれ」と頼んだのですが、知らない世界が面白いようで、なかなか言うことを聞いてもらえませんでした。そこで、昭和56年にスタビライザー(株)をつくり、部下を2人だけ連れて独立しましたところが、私は社長と別れたかったから独立したのに、その社長は「知識が無いからついて行きたい」と言いましてね、(笑)それは困るので、6ヶ月間、前の会社の面倒も見ることになりました。
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