◆2005年度新宿区活き活き経営大賞優秀賞を受賞されていらっしゃいますが、会社経営をもともとから目指していらっしゃったのでしょうか?
いいえ、私は岩手県の生まれで、岩手大学を卒業後、小説家を目指して上京しました。岩手県は、一昔前まで日本のチベットといわれ、歴史的にも冷害などの災害も多いところです。8世紀頃には、阿弖流為(アテルイ)という蝦夷(エミシ)のリーダーがこの地域を統治していましたが、東国支配を強力に押し進める桓武天皇に、791年(延暦10)蝦夷征討のためも派遣された坂上田村麻呂に滅ぼされました。歴史的に、岩手県には、中央に対する反骨精神や自主独立の精神が今でも残っています。私にもこの自主独立の精神が根底にあるのでしょうね。何事にもへこたれない!夢は絶対にあきらめない!そう思って上京しました。
しかし、上京したはいいが、物書きだけでは食べていけませんから、10年間、青年向け新聞の記者やや中米のC国立銀行の日本駐在事務所で働きながら小説を書き続けていました。C銀行の駐在事務所は、国の借金や貿易の決済などが仕事ですが、最後は駐在員夫妻と私だけという小さい規模で、私はそこで「駐在補佐」として、秘書兼運転手、対外交渉といろいろな仕事をやっていました。この経験も「最後の交信」や「椅子屋」という小説の題材の一つになりました。1991年、中南米の国々はどこも累積債務でたいへんな状態でした。湾岸戦争が勃発して、そのなかでC銀行も日本の事務所を閉じることになりました。
ならばうちににおいでよ、との先代社長に誘われてコムネットに入社することになりました。
ところが、入社直後社長から、「私はガンだ。もしものことがあったら、この会社を頼む」と言われたのです。小説家になるのが私の夢でしたが「頼む」といわれたら、いやとはいえません。しかし初期のガンであり、最高の医療を受けているのだからそんなことは無いだろう思いんがら、申し出を承諾しました。しかし翌年、「もしも」が現実になってしまいました。社長が亡くなり、私は経営者としてほとんど準備がないままに社長に就任することとなりました。
◆経営者になることは大変だったのでは?
私の祖父は、村の小学校の校長を辞め40歳になってから東大医学部に入り医師となり、故郷岩手の無医村に戻り、医療が受けられない人のために人生を捧げた人です。その祖父の生き方が影響をしていたのかもしれませんが、医療の世界に飛び込むことにはためらいはありませんでした。コムネットは、先代社長が、治療に行った歯医者に勝手に抜歯されたことに怒りを覚え、患者をおろそかにするような医療がまかり通ってなるものかとつくった会社なのです。
先代からの頼みで社長を引き受けたものの、文学青年にとっては、どうやってヒト・モノ・カネを動かすのか全くわかりませんでした。38歳の青年実業家といえば聞こえはいいですが、何もできない。そこから私の経営修行が始まりました。試行錯誤というよりは、錯誤・錯誤の毎日でした。コムネットは会社ができて6年、そこで入社1年目の私が社長になったわけですから、周囲の人たちは不安だったでしょう。経営者としてのはじめての危機は、社長就任後まもなくやってきました。当時の私は経営者としての実績はなく、鼻っ柱が強くて正論をふりかざしていたわけですが、営業現場はそんな正論ばかりでは通らないところです。ビジネスパートナーである営業が社員を引き抜き、自分たちで事業を始めたのです。明確な造反、裏切りでした。生来「性善説」で生きてきた私ですが、このときは人の心を疑いました。生き馬の目を抜くビジネスの世界の厳しさを肌で感じました。当然、業績の落ち込みはひどいものがありました。しかし、私は闘志を燃やしました。高校時代応援団での地獄の特訓を経験して「死ぬかな」と思ったこともあります。その経験からすれば、半端なことではくじけない、あきらめないという精神が叩き込まれていました。その時は負けてたまるか、なにくそ!でしたね。(笑)
◆どのように乗り切っていかれたのでしょうか?
企業理念の組み立て、そして新しい商品の開発をして質の向上しかないと、取り組みました。その結果、社内に団結力ができ、支持してくれるお客様が増え始めました。コムネットの存在意義は何なのかを社員と共に考えました。私たちの本当のお客様は誰なのか、それは歯科医院の先にある患者さんであり、その患者さんの幸せのためにやっていこうと、言ってみれば、近江商人の商いの哲学である「買い手良し、世間良し、売り手良し」の「三方良し」の精神です。患者さんを真ん中にして、歯科医院もコムネットも皆が笑顔になれるような「win-win-win」の関係を目指してきました。
経営理念として、「患者さんに笑顔と健康を。歯科医療に夢と誇りを」を掲げています。
◆菊池さんは、小説家を目指して上京されたと伺いましたが、その後の執筆活動は?
今年(2008年)の4月に講談社から長編歴史小説「失われた弥勒の手」を出版しました。この小説は、安曇野に住む友人の松本猛氏(安曇野ちひろ美術館館長)との共著です。私と松本氏とは30年来の「物書き仲間」であり「飲み仲間」で、一緒に夏山にも何回も登っています。彼から、4年前の2004年8月、山仲間で登った乗鞍岳で、安曇野に伝わる渡来仏の謎に安曇族の歴史を重ね合わせて一緒に小説を書かないかと言われて、私は即座に応諾しました。そこから我々の二人三脚の旅が始まりました。二人で一つの小説を書くというのは私にとって初めての体験でした。韓国や九州への取材も一緒に行き、資料集め、書く文章の量も同じにして、最後には1人で書いたように統一性を持たせました。それぞれ違った人生を送ってきた二人ですから、個性も違います。いろいろ折り合いをつけながら完成をめざし、一つの作品に仕上げていきました。これも私にとっては良い経験となりました。
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