◆それでは、竹添さんご自身についてお伺いします。お生まれは?
父親の仕事で転勤が多く、2〜3年ごとに日本各地に家族で移り住んでいました。中学、高校時代を過ごした香川県高松市が、私にとっての故郷です。それで出身は香川県ということにしています。今でも付き合っているのは、その当時の友人達です。上京している香川出身者も多いのですよ。自分では、英語も国語も苦手で、文系は好きではなかったので、慶応大学の工学部に進みましたが、高校の先生からは、おまえは理系に向いていないと言われていました。今にして思えば、先生の観察力は確かだったかもしれません。兄が理系に進んだこともあって、自分も理系かなと思ったのですが、どうも思考回路が理系ではないのではと、大学に入ってから気づきました。(笑)
大学を卒業した1976年は、前年までの先輩の話とは違って、大変な就職難でした。そんな中でHOYAに拾ってもらった感じです。(笑)その頃のHOYAはちょうど成長段階にあり、内からと外からみた会社にはかなりのギャップがありました。希望は工場勤務だったのですが、営業の仕事に就かされました。これはこれで、私にとってとてもいい経験にはなりましたが、会社の中で、自分がどの位置いるのかがわからず、まるで将棋の歩のように感じていました。そこで、1981年、入社5年後に思い切って会社を辞めました。自分がやっていることが、会社全体にどのように影響しているのか、それが見えるところで働くには、中小企業がいいのではないかと思ったからです。
◆それで(株)タイガーにお入りになられたのですね。
当時の社名は、タイガー計算器販売鰍ナ、タイガー計算器の生産が中止された後の入社でした。仕事は営業職でしたが、私の思考回路はたぶん文系だったようで、営業は私に向いていたようです。私がタイガーに入った頃は、かなり厳しい時代のようでした。タイガー計算器に代わるものをと、10年以上前からいろいろとチャレンジをしていたようですが、どれも途中で尻すぼみになっている状態でした。その中で、運輸業向け運送管理システムの開発が軌道に乗り、主力商品の一つになりつつある時でした。これは、北海道の運送会社にカシオのオフィスコンピュータにこのシステムを入れて収めたことをきっかけに、全国で販売することになりました。
タイガー計算器の販売で作った支店は、一県に一つずつありました。この販売網を生かして、様々な会社から事業提携の話はあったようです。
今でも語り草になっていることですが、キャノンがコピー機を作って全国に売りたいという話がありまして、キャノンから代理店にならないかという打診がありました。当時、東京航空計器がコピー機を作っていて、そちらとの業務提携をしてしまいました。この時にキャノンを選んでいれば、全く展開が違ってきていたと思います。ジャッジの失敗ですね。(笑)
◆社長を継がれることになったのは?
2001年に社長に就任しました。数年前から、いつかそんな日が来る覚悟はありましたが、ある日突然に指名された形でした。私が社長になった時は、会社として非常に苦しい時期でした。バブル時に、大阪、福岡の支店跡地の有効利用をしようと、タイガー不動産という別会社を作って、ビルを建てました。福岡はある程度利益が出たのですが、大阪のビルは採算が合わず、その不動産の価値も下落し、それに加えて、会社自体の業績も落ち込んでいたいこともあり、資金繰りが大変でした。社長他年配の経営陣が退陣して、私に社長を譲られたのですが、仕事といえば、銀行との交渉で、それが1年半続きました。毎月綱渡りのような資金繰りをやっていました。その間に、本業も持ち直してきて、ビルの売却もうまくでき、持ち直すことができ、借金も殆ど返済し、資金繰りの心配が無くなってからやっと経営を考えられるようになったのは、2年を経てからでした。
◆竹添さんが社長になられて、会社はどのように変わりましたか?
昔はもっと所帯が大きかったので、いろいろなことに手を出せる状態でしたが、今の規模でやっていくためには、物流に特化していくしかないと考え、3年前に物流に特化すると宣言しました。それがよかったのかどうかという結論はまだ私の中では出ていません。原油高の影響や不況感の中で、クライアントさんの元気がなくなっています。当社のコアな運輸のパッケージシステムは、こういうご時世では売り上げを伸ばすことは難しくなっています。今は、クライアントさんの直接的な利益に繋がる、デジタルタコグラフやドライブレコーダなどの車載器の販売がメインになりつつあります。環境問題や燃料高の中で、時代に即した高付加価値の商品を、助成金を利用して、安く取り付けてもらえるようにという提案をしています。
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