◆経営上のご苦労は?
高度成長の時代は、地方から集団就職で上京し技術を身に付けた職人肌の社長が看板を上げて入れば、ドンドン仕事が入ってくる時代でした。また当時は、インターネット、FAX、宅配便網も無く、図面を手渡しで渡すフェイスツーフェイスでの仕事のやり取りだったので、当然として親会社の近くという地域的な優位性もありました。私が会社を受け継いだ時代はバブルがはじけ時代が変わり環境が変わっていました。会社はインターネットを使って全国にどこにでも発注することができ、デリバリーのインフラ状況がどんどん変化し、地方の工場や海外に量産の仕事が移っていました。距離が近いということは優位性ではなくなってしまいました。当社を見ますと、60歳を過ぎた職人が3人、最新鋭の機会も無く、規模も小さい。お客さんから「こんな仕事はできるか?」と聞かれ、会社に持ち帰ると「いや、これは大きいからできない。これは小さいからできない。精度が高いからできない」と言われ、それじゃあ、何の仕事をするのか!という状態でした。当社は金型を起こす量産型の仕事でしたから、金型の費用が高額で、それではなかなか新しい取引先から仕事がもらえません。では何ができるかというと、丁稚奉公時代に身につけた試作品、一品モノ、短納期という技術です。これは金型を必要としません。この仕事でしたら、「試しにうちに出してください。とりあえず1個試作して1万円」という切込みができます。「それじゃあ、お宅の技術なり、対応なりを見る為にためしに出してみよう」ということになるわけです。
営業の技術を磨くだけではなく、東京でものづくりをしていくためには、こういったところに活路を見出していくことが生き残る道であろうと考えました。
◆そこで試作品の工場を作られたのですか?
初めのうちはそういった仕事を請けて、商社的に知り合いの会社に振っていました。しかしそれでは大きな仕事へ繋がってはいきません。そこで、試作品の工場を作り、その工場を窓口として従来の工場での量産型に繋げる一貫した体制で仕事が請けられる形にしたいと考え、今の本社のある場所に、2000年9月完成予定で試作品の工場を建設することにしました。
◆ご両親が築いてこられた工場が火事になったとお聞きしましたが。
2000年6月30日月曜日のことでした。週明けの納品予定の電話がひと段落した午前10時半、隣で解体工事現場からのもらい火でした。強風にあおられ見る見る燃え広がり15〜6軒が全焼する大火となりました。取るものもとりあえず外に飛び出し、生まれ育ち、つい先ほどまで仕事をしていた工場が火の海となっているのを2〜3分見ていました。そして「工場が燃えても部品をつくり納期を守らなければならない。つくるには工場がいる」と、急ぎ近所の不動産屋に飛び込みました。
不動産屋の社長が、「今日はどこか近くで大きな火事があるようだね。どこなんだろう?」と言ったので、「それはうちです。工場が燃えてしまって困っているので、どこか工場を貸してくれるところはないでしょうか?」「えっ!君のところか。それはえらいことだ。若いのに大変だ。一緒についていってあげよう」と物件を探し、大家さんに一生懸命頼んでくれました。その大家さんは快く、家賃も1年間2割安くその日のうちに契約してくれました。どこの馬の骨ともわからない、家賃もきちんと払える保証もない人間に良くぞ貸したなあと、今でも感謝しています。この火事の経験が、当社の経営理念を土台となっています。
◆その「経営理念」とは?
「『おもてなしの心』を常に持ってお客様・スタッフ・地域に感謝・還元し、夢(自己実現)と希望と誇りを持った活力ある企業を目指そう!」です。
火事の後、不動産屋さん、大家さん初め地域の方々に大変お世話になりました。取引先の担当者の方も心配して駆けつけてくれましたが、実は「浜野製作所がどうなっているのかを調べて来い、もし危ないようだったらすべて注文を引き上げるように」と上司から言われていたそうです。会社に戻って「浜野さんは大丈夫です。社長も若いし実力もあるのですぐに立ち直りますから、仕事を出してあげてください」と報告してくれました。もし、「あそこは危ない」と報告をされていたら、今の浜野製作所はなかったことでしょう。お客様、地域に感謝し、恩に報いるべくお返しをしていかなければならないという思いを経営理念に込めました。
焼けた工場の賠償交渉が、新工場の立ち上げ準備や、新しく借りた工場の段取りに追われ後回しになってしまいました。年明けに交渉も最終段階に入ったところで、交渉相手の住宅メーカーが倒産してしまいました。
工場には、父の代からの金型が4〜5000型ほどありました。この金型を焼け跡あとから運び出し、毎夜、明け方の3時、4時まで金岡(現常務)と二人で一生懸命さびを落としました。火事の保証金も取れなくなり、新工場もどんどん立ち上がってくるし、機械の代金の返済も迫ってくるし、金岡の給料も数ヶ月払うことができずにいた苦しい状況でした。金岡は私より5歳若い30歳でした。ぎりぎり転職ができる年齢です。深夜並んで金型を磨きながら、私は金岡に「君はなかなか腕のいい職人だ。うちにいたのではもったいない。給料だって払えない。潰れるかもしれない。そんな会社にいる必要はないから辞めていいんだよ」と言いました。金岡は「私は浜野さんのことが好きだから働いているのです。社長が私を要らないから辞めろと言うまでは、ずっとここで働きます」と言ってくれました。
体力的にも精神的にも辛く大変な時の彼のこの言葉は、心に響きました。嬉しくて涙をボロボロ流しながら金型を磨きつづけました。
経営理念の「スタッフに感謝」というのは、そういう思いで働いてくれている従業員に感謝し報いることのできる会社にしようという思いが込められています。
◆ その後の会社の業績はいかがでしたか?
6年後には売上が10倍になりました。2003年、墨田区の『フレッシュゆめ工場』のモデル工場に認定され、2005年『すみだがげんきになるものづくり企業大賞』の第1回対象を受賞することもできました。現在従業員数は33名、取引先も350社となりました。
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