会社に入られて順風満々でしたか?
両親が始めた当初は印刷会社やブローカーからの下請けの仕事をしていました。父の営業により、1971年頃から酒販組合のビール券の印刷を始めさせてもらいました。始めはまだビール券の認知度が低かったのですが、徐々に商品券としての価値が上がり、1996年頃には、印刷から券の回収処理の仕事までやっていました。両親二人で始めた会社がピーク時には売上が6億〜7億円、社員数30名くらいになっていました。ビール券だけで売上50%を占め、酒販組合全体での売上が約70〜80%で、会社の設備は酒販組合向けになっていました。仕事の種類は、商品券・株券などの有価証券、伝票などの商業印刷でした。ビール券あっての文典堂でした。ビール券という大きな柱があることで、平和でのんびりしたいい会社でした。ところが、1997年を最後に、酒販組合の理事の中に大手印刷会社に親戚がいるということで、ビール券の契約が打ち切られてしまいました。当社をよく知っている関係者の人たちは、文典堂はもう終わりだといっていたそうです。そういう時期に、会社に入りました。一度は会社を辞めることを考えた父ですが、社員のことも考え、家族に説得されて、考え直しました。これからは営業に力をいれるとはいったものの、それまで文典堂としての営業を育てていなかったと思っています。中途で、経験者だからと言って営業マンを新しく採用するのですが、失敗の連続でした。
改革に取り掛かったのですね。まずはどうされましたか?
1996年当時、ビール券以外の仕事は数社の下請け仕事でした。それで7億円の売上ですからすごいといえばすごいですね。(苦笑)これはまずい!下請けから脱却し、新しい顧客を作る営業力をつけなければいけないと、弟とお客さんを開拓していきました。また、情報化がどんどん進んでいく社会になり、印刷業界には大きな影響がでてくると感じました。たたき上げ活版印刷の職人だった父は、「コンピュータなんか金を産まない」という人でしたから、仕方が無いので、自腹を切って一台導入し、社員たちに触らせるというところから始めました。コンピュータは所詮道具です。その道具を使って何ができるかを弟と研究していきました。
文典堂が窮地に落ち込んだのは、父の経営の生でもなく、時代の流れの中での結果です。父はビール券をきちんとやっておけば大丈夫だろうと、30年間正直に商売はやらなければいけないと真面目にやってきた人です。私は社長をやると覚悟を決めて文典堂にきたので、父にいろいろ口出しをされても、営業も採用もどんどんやっていきました。それをやらなければ間に合わない状況に置かれていたのです。両親に感謝しているのは、きちんと蓄財をしていてくれたことです。会社が健全だったことです。30年間コツコツためてきたお金があったことマネーゲームの様な投資はしなかったで、社員のリストラをすることもなく、給料を何とか払い続けることができました。苦しかった中で残ってくれた社員もがんばったと思います。もうダメだと思った時にでも協力してくれる人はいるものです。
社内改革で具体的にしたことは?
文典堂の社員はもともと勤勉で高い技術を持っていましたが、会議というものが全くなく、当然経営理念も事業戦略も就業規則もない会社でした。そこで、会社の経営状態や現場での課題などの情報交換をしたいと思い、月一回勉強会を提案しましたが、始めは大変でした。参加者が数人、参加したものの壁に顔を向けて席に着かないという状態でした。そんなスタートでしたが、徐々に定着して、今では全員参加で、会議の議長・副議長は社員が持ち回りで担当し、営業報告・事故報告などの情報収集、課題設定、レジュメの作成などの準備から、議事録作成までやるようになりました。外部からの参加も自由です。公の場として、緊張感を持ち、自分の発言に責任を持つようにと、社員教育の場としています。3ヶ月に一度は、税理士により四半期決算の収支報告を行っています。決算書もオープンにしました。
私が一番大事なこととして社員には、「職場で愚痴をこぼさないこと。職場で愚痴をグチグチ入ったとしても会社にとって少しもいいことはない。提案、課題として会議で言いなさい」と厳しく言っています。
ビール券で培った商品券の印刷技術を、きちんと売れるしくみづくりをして営業すれば仕事は取れます。「前からあるものを棄てることではなく、今あるものを生かして、その技術をどう外の人にわかってもらえるかをみんなで研究しよう。自分たちで売れるものを作っていくだけの技術の蓄積をしようね」ということを社長になる前にやってきました。こういった取り組みのおかげで、社員が自分たちで考えて動くようになりました。
社員には、会社は働いている人全員で作っていくものだという意識を持って働いて欲しいと思っていましたので、社員と合議制で物事を決めています。何事も全員が納得して動かなければ効果は出ません。経営者も社員もそれぞれの方針や計画を考えたチャレンジシートを作成し、会議で公開することで、情報の明確化、共有化をはかっています。このチャレンジシートは同友会で知り合った労務士の倉本さんからの提案で実施することになったことの一つです。
社長になるまでの10年間が池田さんにとって大変だったのですね。
この10年ほど働いた時はなかったですね。1日の睡眠時間が約3時間、それを10年続けましたが、人生の中で一番濃い時間でした。その10年に私のプライベートな時間はありませんでした。婚期を逃したのもこの10年があるからなんですよ。(笑)考えてみると、いい時期に会社を継がせてもらったと思います。順風満帆な状態で会社を引き継いでそこからドンと落ちるより、最悪な事態で受け継いで何とかやっていけるところまでこられたということは、いい経験をさせてもらったと思っています。
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