高橋さんは小学生の社会科教科書のデザインも手掛けられ、初めてデザイナーという仕事を紹介されていますね。
2005年の小学6年生用の社会科の教科書で取り上げられました。点字付きのカレンダー「カレンダーキューブ」もご紹介いただき、その中でユニバーサルデザインについてお話をさせていただいています。この「カレンダーキューブ」は、視覚障がいのある人も、そうでない人も楽しめるというコンセプトで、さまざまな工夫をしました。製作段階では先天性や後天性などさまざまな視覚障がいのある方々のお話を聞き、弱視の方も読み易い文字や色、サイズなども考えデザインしていくなど、まだ点字になれていない人への配慮をしました。天地が分かるように、矢印(△)も入っています。視覚障がいのある方にとって、矢印は未知の記号だったため、予想外に反響が大きかったです。「ユニバーサルデザイン」といっても、晴眼者向けの既存商品を土台に考えると、見えない人の本当の使いやすさからかけ離れてしまいます。とはいえ、見えない人が描く快適さも無意識のうち晴眼者の常識に縛られてしまっていると思います。既成概念を取り外し、そのものが誕生する前の地点に立って、本当に必要なものは何かを考えて作り出していくということが大切だと考えています。
「ユニバーサルデザイン」という、さまざまな環境の中でさまざまな人のためを思ったデザインをしていくという概念は、アメリカから来て、まだ10年も経たない言葉ですが、元々言葉として存在しなくとも、デザインとは往々にしてそうしたものであると思います。
高橋さんは、成田国際空港第一旅客ターミナルの空間デザインをされていますが、どのようなお仕事でしょうか。
成田空港第一旅客ターミナルの北ウイングと南ウイングをつなぐ、成田では一番大きな空間のデザインをご依頼いただきました。成田空港という厳しい条件の中では、デザインができるだけでなく、素材や、ものづくりの視点などにも詳しい人ということでもお話しをいただきました。
はじめ私が描いた金魚の絵を壁画にして欲しいというお話しでした。そこで金魚と成田空港をつなげ、日本をPRすることをイメージしました。そこで、葛飾北斎の絵と金魚を融合させたイメージを提案しました。金魚を空を泳ぐ飛行機と見立て、成田が時空を超えて海外と日本をつなぎ、江戸時代と現在、そして未来を繋ぐイメージです。葛飾北斎にこだわったのは、北斎が描いた絵には江戸から今につづく、日本の庶民の暮らしがくまなく描かれているからであり、人の営みや生活の中にこそ、日本人の意識のすべてがあると考えるからです。
大変な仕事になるといわれていたのですが、それは私の想像を超えた問題の連続でした。
大変だったことはどんなことですか?
空間の中心に使った葛飾北斎の作品を墨田区から信頼関係の中で特別にお借りできたことでした。本来、葛飾北斎の絵をコラージュすること自体認められていません。まして、当時はまだ「すみだ北斎美術館」の建設は決定しておらず、多くの北斎作品はまだ公表されていない時期でもありました。公共の空間として、墨田区と墨田区文化振興財団の全面的な協力により実現することができました。財団で1000点以上の作品を限られた時間の中で見せていただき、借りる作品を選んでいきました。コラージュとは、作品を切り張りしていくものなので、実際デザインをして見ないと分からない部分があります。それぞれコンセプトやストーリーを大きな空間単位や、その中のまた小さな空間単位、そして、一枚一枚の巨大パネルの単位などで、何階層にも渡りつくって作品を選んでいくのですが、作品が版画ということもあり、摺りが薄いものも濃いものもあり、保存状態も一様ではなく、それらをミックスして頭の中で集中して一気に一枚の絵にしていくことはとても大変でした。頭の中に、一枚一枚をすべての絵の状態や色味などを記憶して、かなりのスピードで構成を決定していかなければいけないという状態でした。その時はすごい集中力で、全ての作品の隅々の絵や色味の状態、タイトルや場面の内容、そして作品の中のどの部分をどの様に使っていくのか、一枚一枚記憶していきながら、頭の中で構成を短時間でしていきましたが、今はもう忘れてしまいました。(笑)作品を借りる時には、構図はすべて頭の中で決まっていました。
それは神業に近いことですね。本当に凄いことです。このプロジェクト完成までに他にどのようなご苦労がありましたか?
空港という特殊な場所でしたから、天災などに耐えうる耐久性の高い空間としなければいけないこと、金箔・銀箔で覆われた壁画を実現するための職人さんたちの確保、そしてこの広大な施工スペースでの現場管理など、問題は山積みでした。現場での進行も当社が請け負っていましたので、工期が1ヵ月2ヶ月と延びてしまい、常にドキドキで、綱渡りのような心境でした。これができなかったら、どうなるのだろうかという思いでした。あまりにもたくさんの人たちと一緒に仕事をさせていただいた時間が長かっただけに、時間とお金と職人さんたちのコンディションなどを意識しながら、本当に無事完成できるのだろうかという不安でいっぱいでした。
またその当時は、二人目の子供を妊娠していました。早産になる体質なので、産休に入る前に完成する予定でしたが、工期がどんどん延びて、夜な夜な成田に通っていた状態で、もしかしたら成田空港で出産することもあるのではと冗談抜きでの覚悟もしていました。(苦笑)
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